松本人志さん、銀座の女というのはそんなに恵まれているのですか?
2月下旬あたりから、銀座の街も新型コロナの影響が深刻になり、連日キャンセル続きで「ザボン」もついに休業宣言を致しました。4月に入ってからは街もガラガラ。そんな銀座を見てしまうと、悲しいだけではなく苦しい気持ちでいっぱいです。
テレビのワイドショーではダウンタウンの松本人志さんが、水商売の人たちの休業補償について、「ホステスさんが休んだからといって、我々の税金では、俺は払いたくない」と発言されました。世間では私たちというのはそんなにお金を持っていると思われているのでしょうか? たしかに稼いでいらっしゃる高級クラブもありますが、銀座はそういった店がすべてではありません。不況に悩まされながらも、これまで歯を食いしばって頑張ってきたんです。
正直に言いますと、私は毎月のように通帳を開いては、店の経営状況に悩んでおります。社会不況、出版不況でお客様は減っても、家賃と固定費はまとまって消えてゆく。支払いが回らず、自分の貯蓄を切り崩すこともしばしばです。3月はほとんど営業もしていないのに、大きな維持費だけが出ていきました。「手遅れになる前に店を閉めた方がいいのではないか」といった声を、常連の先生方から頂くこともあります。しかし、私にはどうしても簡単に店を閉めることなどできないのです。
銀座の文壇バー・クラブザボンのはじまり
ザボンは1978年、銀座6丁目のビルで始まりました。広さはたったの3坪。カウンターの席しかない、とても小さなお店でした。私はザボンを開くまで、「眉」という文壇バーで働いておりました。そこへ来ていたある雑誌の編集長に、「手ごろな物件があるからやってみるといい」と言われ、同じくお客さんだった丸谷才一(2012年没)先生も「いいんじゃないか」とおっしゃられて開業することに。店は順調で、89年には赤坂に蕎麦割烹「三平」をオープンし、たくさんの先生方にお世話になりました。
しかし、それから約20年後、リーマン・ショックに東日本大震災と日本の不況が続き、店の経営もどんどん厳しくなっていきました。利益が出なければ、自分の貯金を切り崩すしかない。ザボンも「三平」も、両方潰れてしまうのではないかと、夜も眠れない日々が続きました。
そんなとき、相談に乗ってくれ、応援してくれていた先生たちや恩人たちが、次々に亡くなっていきました。とくに丸谷先生が亡くなられたときは、ひどく落ち込みました。ザボンも「三平」も名付け親はこの丸谷先生でしたから。
私が「ザボン」を閉めることができない理由
とうとう私はストレスで大腸ガンを患い、ドクターストップを受けました。店の顧問会計士にも「ザボンか三平、どちらかを選ばなければならない」と念を押されてしまいました。
毎月のように膨らんでゆく赤字を見ると、何もかもが嫌になってきてしまいました。思考停止の状態に陥ってしまい、魔法にでもかかったかのように、店をやめたほうがいいんだと思い始めるとスッと気持ちが楽に。偶然にも、「三平」を欲しがっていた方がいたので、タダ同然で譲り渡してしまったんです。
しかし、「三平」は私にとって思い入れのある店でした。あとになって考えてみると、閉める必要なんてなかった。もう少し頑張ればやれたものを、どうして私は簡単に手放してしまったのだろうと後悔の念に駆られました。丸谷先生たちの恩を、私の一時の気の迷いで台なしにしてしまったような気がして、とにかく自分を恥じました。
「三平」の閉店は私の人生のなかでも、もっとも大きな失敗でした。だから、ザボンだけはなにがあっても体が動かなくなるまでやり遂げると、そのとき決意したのです。
なにかを手放すのは簡単なことです
銀座という街は、ほかの歓楽街とは違った機能を持っていると私は確信しております。ジャーナリスト、作家、編集者。そういった方々が集まれば話題は尽きることなく、新しいものが次々に生まれる。新宿、渋谷、六本木、人が集まる場所は多くありますが、文化人の方たちが一堂に集まるのは銀座くらいではないのでしょうか。
同じ店でいろいろな分野の文化人が集まるのです。普段は接点がないけれど、お互いに会うべき人たちが自然と集まることができる。この文化は、後世にも残していかなければなりません。
休業要請というものは法的に縛られることはないですが、私としては営業を再開できません。いまは苦しいけれど、この状況で営業をしてお客様が感染してしまったら、それこそ店が潰れてしまいます。銀座という文化を守るためにも、いまはみんなで歯を食いしばるしかないのです。
作家の島田雅彦先生からは「銀座の灯を消さないで」と励ましの連絡がありました。林真理子先生からも「再開したら真っ先に駆け付ける」と激励の言葉が。重松清先生は「いまは心と身体を休めると思ってゆっくりしてください」と私におっしゃいました。
お世話になっている先生方の気持ちは大変うれしく、それと同時に「このまま終わっていいわけがない」と、弱気になりかけていた自分に喝が入りました。なにかを手放すのは簡単ですが、それを取り戻すこと容易ではありません。
クラブ・ザボンは私のすべてです
私には、ある先生に言われたいまでも忘れることができない言葉があります。銀座にやってくる男性たちは、みなさんエリートばかりです。あるとき店で、「私、エリートの男性と結婚したいわぁ」と漏らすと、伊丹十三(97年没)先生が、こうおっしゃいました。
「バカじゃないのか。銀座の女には不幸の影がないといけないんだ。あんたが幸せな女だったら、いったい誰が店に来るんだよ」
休業中のこの空虚な生活がこれから死ぬまでずっと続くと思うと、私は耐えられません。経営に苦しみながらも「ザボン」という私のすべてでもあるこの店に、当たり前のように立てていたことが、何事にも代えがたい幸せだったのだと、いま、自粛中の自宅で噛みしめています。
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