※本稿は、Jini『好きなものを「推す」だけ。共感される文章術』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
これからのキーワードは「推し」
「推し」とは、昨今インターネット上のスラングで「特定の人物を推薦する」を意味する「推す」という動詞から派生した言葉を指します。元々はアイドルファンの間で用いられる「推しメンバー」という言葉から派生したものでしたが、TwitterをはじめとするSNSの隆盛に伴って、ポップカルチャーを好む層も使うようになりました。
2011年にはユーキャンの新語・流行語大賞に「推しメンバー」がランクイン、さらに2015年から連載されていた漫画『推しが武道館いってくれたら死ぬ』が2020年にアニメ化されるなど、「推し」は一層普遍的な概念として現代社会に浸透しつつあります。
とはいえ、ネットで多少流行しているだけのスラングをあえて論じる価値があるのだろうかと、皆さんは疑問に思われているかもしれません。私自身、この「推し」という言葉そのものは遅かれ早かれ、廃れると思っています。
ただし、「推し」という言葉が発生した文脈はこれから何十年、いや100年以上も続くと確信しています。そこにこそ、「推し」の価値があると思います。
「推し」という言葉は新しくても、概念としてはずっと昔からあるものです。何かを推奨する、何かを奨励するといったコミュニケーションは、恐らく人類が言葉を手に入れるよりも先に持っていたもののはずです。
SNSの普及で訪れた「1億総ジャーナリスト」時代
資本主義経済が世界に根付き、広告というものが産まれると、より一層「推し」は重視されます。社会にいる人たちに製品を買ってほしいと訴えかけるために、製品の魅力を訴えたり、タレントを使って商品を推させたりする。テレビやラジオといった放送技術が発達し、情報をより多く、広く、早く伝えられる近現代では、より一層広告による自薦が発達しました。
逆にいえば、この当時「推し」という行為が許されたのは、公共電波や出版技術を持つ、ごく一部の人のみ。それ以外の人でも、たとえば子供たちが好きなおもちゃをクラスメートに口伝で推すことはあったかもしれませんが、その影響力は微々たるもの。口コミの影響力はあくまで物理的な「口」に限定されていたのです。
それが、ネットが普及し、誰もがスマートフォンを持ち、そこにSNSというサービスが登場したことで、皆が自分がいいと思ったものを「推し」、他者がその「推し」を参照できる、「1億総ジャーナリスト」とでも呼ぶべき時代が到来したのです。
「Nintendo Direct」はコスパがいい
まずは企業が、代理店やマスメディアを通さず自ら発信する、つまり自分たちが作った商品を自分たちが「推す」ようになりました。ビデオゲームの販売などで日本を代表する企業である任天堂は、テレビCMや広告記事などと並行して、2011年から「Nintendo Direct」という映像コンテンツをYouTube上で発信し、自社の作品のタイトルやその魅力、遊び方まで解説しています。
その再生数は数百万から、多ければ1000万回を超えます。2019年11月の全国個人視聴率調査(NHK調べ)によると、朝のニュース番組「おはよう日本」月曜7時台の視聴者数が1100万人規模。放送局に一銭もお金を払わず、自社とYouTubeだけでこれだけの数のユーザーに情報を伝えられることが、どれほど驚くべきことかおわかりいただけるでしょう。
任天堂はこの「Nintendo Direct」を定期的に配信することによって、情報を追うには「Nintendo Direct」さえ見ておけばよいという状況を作り出せています。公共の電波を使わずにこれほど見てもらえるわけですから、企業のプロモーションを行う上で最もコストパフォーマンスに優れた手段といえるでしょう。
情報発信を第三者に委ねない
しかし、任天堂が「Nintendo Direct」を始めたのは、何もコスト削減のためだけではありません。実は任天堂は、本番組を始めるまでに新聞社やウェブメディアに発信を委ねた結果、意図的に文脈を切り取ったといえるような報道や憶測のみで語った報道が何度もなされ、それに対し自社ホームページで否定するということが続いたのです。
任天堂に限らずゲーム企業は、マスメディアが唯一の情報源という時代において、マイノリティとして大きな苦境に立たされていました。
そんな経緯から任天堂は、自ら他の圧力や解釈を回避して直接ユーザーに情報を発信できる手段として、いち早く「Nintendo Direct」という発信手段を確立したのです。それゆえ映像では、任天堂元社長である岩田氏自らが画面の前に立ち、「直接!」と声をかけることが定番になっていました。そして岩田元社長亡き現在でも、任天堂の「直接!」の精神は失われておらず、自分たちで販売・制作しているからこそ理解している作品の価値を、隅々までユーザーに届けているのです。
任天堂の例からもわかるように、マスメディアや広告代理店を通じた、一部大企業による「推し」が中心だったマーケティングは、各種ウェブサービスの発達に伴って今、少しずつ企業が自らユーザーに対して直接「推し」を進めるようになっています。
これはすなわち、報道や広報といった仕事を第三者に投げるのではなく、企業自ら進める時代が到来しているということで、一見してメディアと無関係な企業でも、いかに自分たちの製品を自ら「推す」のか、という課題は避けられなくなりつつあるのです。
「ゲーム実況」を任天堂が認めた理由
メディアではなく自らが発信することで、自社主体のマーケティングに成功した任天堂ですが、彼らは自らの手で自社製品を推す「Nintendo Direct」に加えて、ユーザーに自社の商品を「推させる」マーケティングにも成功しています。
その最たるものが、今YouTubeで最も再生数を集めやすいコンテンツの一つ、「ゲーム実況」と、任天堂ゲームを適切な形で投稿する限りにおいて、収益化までも認めた「任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」です。
元より、YouTubeなどの動画投稿サイトやTwitchなどの動画配信サイトでは、ユーザーがゲームをプレイする様子を録画し、その動画をYouTubeなどにアップロードしたり、そのまま生放送したりする通称「ゲーム実況」「ゲーム配信」と呼ばれるコンテンツが世界的に流行しています。
月5000万円以上稼ぐスターも生まれた
特にAmazonの子会社にしてゲーム配信の大手プラットフォームTwitchでは、2015年には月150万人が生放送するのに対して、1億人の視聴者がつくというほどの熱狂ぶりで、その放送のほとんどは、ただ話しながらゲームを遊ぶだけ、という内容です。
子供の頃に、友達がゲームを遊んでいるのを隣で見ていた経験がある人は想像しやすいかもしれませんが、人がゲームを遊んでいること自体が今、コンテンツとして非常に大きな市場価値を生み出しているのです。
その中でも最も人気を集めた配信者(海外ではStreamerと呼ばれる)のNinjaは、弱冠28歳にして1400万人にフォローされ、ただゲームを遊ぶ姿を配信するだけで月50万ドル(約5400万円)を1人で稼ぐほどのトップスターとなり、2019年のTIME誌「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれました。今、ユーザーが自ら遊び、配信し、それを第三者が視聴するという「ゲーム実況」によって、ゲームの市場、そして文化は大きく変化しているのです。
とはいえ、「ゲーム実況」は元々企業が著作権を持つゲームを無断で用いて作った動画であり、ここから収益を得ることは本来グレーな文化です。そこへ来て任天堂はいち早く、自社の収益よりも「ゲーム実況」から広がるブランドに着目し、収益化まで認めたのですから、本当に先進的な企業といわざるを得ません。
企業と顧客の双方向的マーケティング
任天堂の法務部は数々の訴訟に勝利した実績があり、権利関係もかなり厳しい企業だったのですが、「ただ任天堂のゲームを楽しく遊び、その魅力を視聴者と共有しているだけの文化」、すなわち魅力的なゲームを広く推す文化がもたらす長期的なブランドイメージを考慮すれば、ゲーム実況は企業にとってデメリットよりメリットが大きいと考え、収益化を認めたのではないでしょうか。
その結果、YouTube、Twitchなどの主流な動画配信サイトでは、何百万というフォロワーがいるクリエイターによって日夜、任天堂のゲームを楽しそうに遊ぶ姿が配信され、これらの配信をきっかけにゲームを買う人も少なくありません。
かつて製品を売るためには、マスコミや代理店による一方的で大規模な広報が主流でした。それが今、任天堂の「Nintendo Direct」や「ゲーム実況」などに代表されるように、さまざまなウェブサービスを使って企業が自らSNSアカウントを作って発信したり、さらにはユーザーが自ら気に入ったものを評価する「推し」を後押ししたりといった、企業と顧客の双方向的なマーケティングが増えています。
今や、有名タレントが起用されたCMを何本作ろうと、大新聞の全面広告を出そうと、それだけでは、スマートフォンを利用する、特に若い層に知ってもらうことは難しいのです。
スマートフォンやインターネットを中心とする新しい時代には、ユーザーや企業が自ら多角的に発信する、新しいマーケティングを考える必要があります。では、こうした著しい変化が起きる社会で、我々には何ができるのでしょうか?
宣伝する時代から宣伝してもらう時代へ
「推し」が普遍的な文化でありマーケティングとして効果を上げる例としてスケールの大きな話をいろいろ挙げましたが、そうしたSNSを通じて商品の価値を高めたり拡散したりするのは、東京の大企業でもシリコンバレーのメガベンチャーでもなく、日々スマートフォンを持って暇つぶしがてらSNSを眺めているような学生、ビジネスマン、お年寄りの方々——つまりは、私たちです。
今や、SNSやAmazonでの評価を気にしない企業など存在しません。商品がユーザーに愛され、推されたために宣伝費をほぼかけず成功する企業もあれば、新商品の宣伝のために巨額の宣伝費を投じたにもかかわらず、ユーザーの悪評で鳴かず飛ばずだったという企業も数多くあります。
ユーザーの声を無視して商品を買わせるといったマーケティングは一層困難になっており、企業は顧客に「宣伝する」よりも、顧客に「宣伝してもらう」にはどうすればよいかを考える立場になりつつあります。
任天堂だけが特殊な成功例ではなくなっていく
先ほど例に挙げた任天堂は、コアなゲーマー以外の層からも人気の高い企業で、海外にも多数のファンがいます。それは、任天堂の妥協なきゲーム作りと情熱を前提にしたブランディングの結果であることは間違いありません。
しかし、何より任天堂が「Nintendo Direct」を世界同時公開することで、他社メディアに頼らない広報環境を築き、「任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」を制定したことで、ゲーム企業として異例のスピードでユーザーがゲームを「推す」環境を整備、自社コンテンツの価値をユーザー主体で発信させたことも、大きく貢献しているでしょう。
任天堂のめざましいユーザー主体の「推し」への理解と信頼がうかがえます。そしてこのトレンドは、業界問わず、この後さらに加速していくに違いありません。
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