「情報のカオスの海」でファクトを見定める
筆者は新聞記者→週刊誌記者→編集者→フリー記者と、
いま現在、旧型メディアは衰退し、現在の私たちは深くて広い「
新型コロナ関連の報道でも、数多くのあやふやな情報、フェイクといって構わない情報が氾濫したのはご存じの通りです。膨大な情報からいかにしてフェイクを捨て、ファクトを得るのか。経験則も踏まえながら執筆したのが『フェイクニュースの見分け方』(新潮新書)という本です。
今回はその中からいくつか、私なりの法則を述べてみましょう。
まず、強調したいのは、「証拠となる事実の提示がない『オピニオン』(意見)は全部捨ててかまわない」という法則です。ファクトの裏付けがないオピニオンが社会にとって重要なことはほとんどありません。あっても、それは例外的なことだと考えてよいでしょう。
たとえば、2015年、東日本大震災後、停止していた原発を再稼働するにあたり、ある文芸評論家の方が、懸念を示すコラムを新聞に書いていたことがありました。その理由がいくつも並べて書かれています。
証拠となる事実の提示がないオピニオンは全部捨てる
ところが、精査してみると、どこにも裏付けになる「事実」の提示がありません。評論家は電力会社幹部の心や経産省の思惑等々があるのだろう、といった理由を述べ、こんな理由で再稼働をすべきではないと主張するのですが、その根拠となる事実(エビデンス、証拠、論理)がなかったのです。つまり文面から判断する限り、挙げられた理由はすべて「筆者の想像」にすぎないと考えざるをえません。
「全部捨ててよい」と述べた「オピニオン」とは、こうした「論拠となる事実を欠いた記述」を指します。「個人の主観」「想像」「空想」「推量」「感想」などと言い換えてもいいでしょう。その内容には「単なる妄想、空想あるいは当てずっぽう」から「ほぼ事実」までレンジがあります。
もちろん他人のオピニオンに耳を傾ける必要はあります。とりわけ好きな作家やアーティストの意見を聞くのは楽しいことでしょう。しかし、事実を確認しよう、「真実」「ファクト」に迫ろうという作業においては、論拠となる事実を提示していないオピニオンは捨てるべきです。
反対に、裏付け、論拠、根拠となる事実を伴ったオピニオンを英語で「ファクト・ベースド・オピニオン(Fact Based Opinion)」といいます。こちらは捨てる必要はありません。根拠の提示がないオピニオンが社会で価値を持つのは、むしろ例外と考えた方がよいでしょう。
オピニオンが価値を持つのは例外に過ぎない
かつては、マスメディアそのものを企業が独占していました。
だから、その「特権者が何をオピニオンとして言うのか」も注目を集める社会的価値がありました。そういう時代にはある程度、文芸評論家の○○さんのオピニオンといったものにも価値があったのでしょう。
しかし、すでにそうした「マスメディアで言論を表明できること」の特権性はなくなります。誰もが言論を発信し始めてみると、旧型メディアに連なっていた発言者より、はるかに優れた見識や知識、感性、着想や思考力を持つ人材が市井に多数いることがわかってきたのです。
ただ、例外的にオピニオンが価値を持つケースがあります。それはオピニオンそのものが「事実」として重要性を持つケースです。
たとえ言っていることが無茶苦茶であっても、トランプ大統領のオピニオンは、それ自体が大きな影響力を持ちます。発言者そのもの、
「識者」「コメンテーター」に依存するメディア事情
本来、何かの主張をしたい場合は、ファクトで勝負すべきなのですが、上に挙げたようなコラムで、メディア側が何となく自身の主張に近いオピニオンを掲載することは珍しくありません。こうした「記者が根拠となる事実を取材してとらえる」
新聞や雑誌に登場する「識者」、テレビでの「コメンテーター」という立場は、この「代理話者」にあたります。
新聞社勤務時代、私は「識者のコメントを取材して載せるくらいなら、その内容を証明するような事実を取材して書け」と教えられました。識者コメントはそれができず、論拠が弱い時の「ごまかし」だと教わりました。代理話者の発言が掲載されていることは「裏付けとなる事実の取材ができなかった・足りなかった」という記者にとっては「敗北」だったのです。
自分たちの主張に沿ったコメントを取りに行くメディア
こうした文化が廃れ始めたのは、新聞や出版の企業としての業績が下り坂になった90年代半ば以後でした。経費削減などの影響で取材にあてる時間が短縮され、記者が取材した記事だけでページを埋めることが難しくなりました。
その代わりに代理話者のコメントが増えたのです。最後には筆者を固定した「コラム」「エッセイ」など「連載もの」で紙面を埋めるようになってきました。そのほうがコストが少なくて済むからです。
朝日新聞なら朝日新聞で、自分たちの主張に沿った内容を発言してくれそうな代理話者はある程度事前にわかっている。気の利いた記者なら、それをリストアップし、連絡先(電話番号、メルアド、SNSのアカウントなど)を用意しています。これは新聞社でなくとも、週刊誌を発売する出版社やテレビ局でも同じです。
そうするうちに「インターネット系ならあの人」「言論の自由がらみならあの人」というふうに「常連」ができてきます。その媒体の方針に沿った内容を言う代理話者の顔ぶれで「あの人は××系」「◯◯系」と「色分け」ができるようになるのです。
「識者」「コメンテーター」がメディアに出てきたときは、実は「
主語が明示されていない文章は疑う
また、近年、新聞でよく見られる表現で気を付けたほうがよいのが「主語が明示されていない文章」です。1980年代、私が大学を卒業して新聞記者として働き始めたとき、上司(デスク)に厳命されたのが、「記事では、主語が何かわからない文章を絶対に書くな」でした。
その悪例のひとつが「~れる」「~られる」で終わる「受身形」です。うっかりそういう文章を記事に書いて出すと、ズタズタに直されて、ボロクソに叱られたものです。
なぜ主語の明示が必要なのでしょう。
報道では、記事に必ず盛り込まなくてはいけない要素は「
ところが、
「党内では○○○といった臆測も流れた」
「この決定そのものが「誤算」続きだったとの指摘もある」
「このままだと選挙は厳しいと予想していたからだとされる」
「党内ではもはや死に体だとの見方が強まってきた」
こうした言い回しをご覧になることは珍しくないのではないでしょうか。憶測を流した、指摘をした、予想をした、見方を強めた等の主語がきわめてあいまいです。こうした文章は、私の新米時代のデスクなら「誰がそう言っているんだ?」と言って書き直していたはずです。
主語が不明確な文章は、発信者の思惑が含まれている可能性も
私がふだん読んでいる英語のニュース媒体なら、匿名にしてソースを伏せるにしても、何らかの主語が明記されています。
こうした主語が不明確な文章はなぜ有害なのでしょうか。それは「どれくらい事実と考えてよいのか」が読者にわからないからです。
誰が「憶測」しているのか。「見方をしている」のか。複数なのか、単数なのか。国会議員なのか。職員、党員なのか。あるいはどこかの新聞・テレビの政治担当記者がそう言っているのか。あるいは筆者自身がそう思っているだけなのか。極端な場合、取材しないで作文したのかもしれない。
こうした情報にもまた発信者の思惑や意図が含まれている、すなわちフェイクである可能性が十分あります。
ここに挙げたのは、私なりの職業経験から導いた法則のようなものです。
「これは単なるオピニオンではないか」
「この人は代理話者ではないか」
「このエピソードの主語は誰なのだ」
といった視点を持つことによって、フェイクニュースに騙されるリスクは下げられるだろうと思います。
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