コロナを引き金に顕在化した違和感
新型コロナウイルスの感染拡大で、これまで常識だった価値観が揺らいでいます。一方、こうした「価値観の変化」は、コロナ禍以前から進んでいた面もあるように受け止めています。
私は2012年から「電通若者研究部」の研究員として、大学生などとの共同プロジェクトを多数手がけてきました。そして若者たちをみていると、コロナ禍で急速に進んだように思われる「価値観の変化」が、すでに先取られていたことに気付きます。
電通若者研究部では、その変化を以下の7つにまとめています。
2.時決ニーズ
3.能動圧力
4.Mind to Mind
5.アンダーコントロール感
6.オピニオンファースト
7.不文律のリセット
私はこれから、上記のような価値観の変化が、若者だけでなく、全世代に広がっていくのではないかと考えています。具体的にどのような変化なのか。ひとつずつ見ていきましょう。
コンテンツは8秒で見切りをつけられる
長いステイホーム期間の過程で物事の動きが、自ら出向く「ご奉公型」ではなく、物事の方からやって来てくれる「殿様型」へ、多くの点でシフトしました。
消費の面でも、Uber Eatsに象徴される宅配食の活況をはじめ、これまで「お店まで食べに行く」レストランも、苦境を乗り越えるべく「テイクアウト」を始めました。中にはこれまでは門外不出とされてきたレシピを公開し、自炊で楽しんでもらおうとする店も現れました。
これも、元々はデジタルネイティブ、スマホネイティブと呼ばれ、大量の情報やコンテンツが安価もしくは無料で楽しめることが小さい頃から当たり前だった若者世代が、企業からすると「難しい消費者」と言われてきたことと構造が符合します。Vision Criticalの調査によるとZ世代(1995年以降に生まれた若者)の1つのコンテンツの平均消費時間は8秒で、一度に平均5つのスクリーンを使用する。言い換えれば8秒で見切りをつけて次を探しに行く。まさに「多くの陳情を裁く殿様」のような状態です。
選択肢も多く、便利にも慣れ、高い情報リテラシーに基づいた商品やコンテンツの見切りが早いなどの「殿様的な消費行動」は、若者のみならず多くの世代に「コロナだから仕方がない」という大義とともに一般化しつつあるように感じます。実際、コロナ禍が終わった後でも元の勤務や通学にはもう戻れないという意見も多いようです。
「資産を自社で囲い込み、ニーズがある人に取りに来させる」ことを前提にしたビジネスモデルや就労形態が崩れ、「主導権が顧客にある前提で設計された商品・サービス」がいよいよ一気に加速し、不可逆な変化としてコロナ後も残るのではないでしょうか。
主導権が自分たちにある前提で発想する企業や企画は、引き続き見直しを迫られるはずですし、コロナ後に再び主導権が元どおりになるとは思わない方がいいでしょう。
自由な毎日には「オンデマンド動画」より「ライブ配信」
コロナ禍は多くの人に「時間の裁量」を与えました。
忙しさは変わらなくとも、在宅時間が増えたことに比例して「それぞれのタスクをどのタイミングで処理するか」の自由度は上がったはずです。昼食後に一度風呂に入ったり、育児をしながら資料を作ったり、好きなコーヒーを入れながらミーティングに出たり。
自由ということは、社会規範により決められていた「一律の時間」で生きる度合いが減り、個々人が「それぞれの時間」を生きる度合いが増えたとも言えます。
ただでさえ外出が制限されて曜日感覚や時間感覚も溶けていく中で、“自己管理力格差”が顕在化したのではないでしょうか。自己裁量で使える時間を稼ぐための「時短」から、増えた自由度の中で「いつ何をやるのかを意思決定する」という「時決」へ、人々のニーズはシフトしていっています。
同時に、時決を促す取り組みにも注目が集まっています。電通若者研究部も加盟している大企業の若手中堅社員による実践コミュニティ「ONE JAPAN」では、リモートで生活の自由度が増える中、あえて昼食を決まった時間にZoomで一緒に食べる「ONE JAPAN食堂」という取り組みを自粛期間中ずっと続けています。これもつながりを実感できるだけでなく、「昼食を食べるタイミングを決める」ことに、時決の価値があると感じます。
インスタグラムでの毎朝のヨガレクチャーのライブ配信が好評なのも同じで、「録画して各自オンデマンド」に楽しむのではなく、あえて「タイミングをそろえる」行為だからです。
コロナ禍後もリモート勤務を制度としてスタンダードにしていく企業が出てきているように、ますます自己管理力の求められる時代になり、いつ何をやるのかという「時決」のスキルや、それを補うサービスに注目が集まるでしょう。
視聴者不在の中で動画配信を続ける若者たち
学生との共同ワークショップで、動画の「無観客配信」をする若者が徐々に現れていることを知りました。視聴者がいないのに、自分の好きなものや感じていることを、カメラに向かって話して動画配信するのです。一見「なんのために?」と思いますが、よく考えれば「フォロワーが少なくてもツイートする行為」とあまり変わりません。
背景には、お花見、始業式、入学式、GWの河原のバーベキュー、部活の大会などの「人生のイベント」が延期や中止になってしまったことがあります。「時期が来たらイベントが強制発生する」感覚が薄れ、「自分から能動的に物事に関わってイベントを起こしていかないと、何も起こらない」という日々を痛感した若者が少なくなかったようです。
社会からすれば、何も能動的にやらないで家にいる自分は「いないのも一緒」なのではないか。そういった「能動的でないといけないと感じる圧」は強まったとも言えます。動画配信やツイートは、この心理の表れでしょう。
たとえ一念発起して行動しなくとも「世の中や社会に参加している実感」を得られるような体験へのニーズは、コロナ禍が収束に向かった後も「個々人が自己裁量で生き方を決める」ベクトルが続く限り、強まっていくように思います。
「人は多面的である」という前提
例えば、ある人が出社し自席に座り、対面で会議に出ることを「その人への信用の根拠」にするといった価値観が、コロナ禍により保つことが難しくなりました。
その人がまちがいなくその人であるというフィジカルで形式的な「同一性に基づく信用」は、リモート前提の人間関係とはなじみません。若者にまつわるトピックで言えば、今年の新卒採用でリモート面接を導入した一部の企業では、「画面に映らない場所で親が助言をしていないか」「カンペを読んでいるのではないか」など、新たな懸念に人事が頭を悩ませているとのことです。
しかし、よく考えると若者の価値観はコロナの前から「同一性に基づく信用」にこだわるよりも、「多面性を前提とした信頼」へと、シフトしていました。複数のSNSアカウントを持ち、アカウントごとに話題や口調、人格が変わる。実名も知らず顔も見たことのない相手と、オンラインゲーム上の振る舞いややりとりだけで恋愛が始まるケースもありました。
Face to Faceでコミュニケーションをすることに本質はなく、大事なのはMind to Mindで向き合っているか。若者はもとより、他者を「フィジカルな同一性でしか信用しない」という価値観から移行していたわけです。
見えない他の面について過度に詮索したり疑ったりすることはしない。このシフトは、感染拡大を避ける生活様式を検討する中で改めて浮き彫りになった手続きや業務の非効率性の課題も相まって、不可逆な変化として続くでしょう。
この構図は、スマホ持ち込み可の大学受験の是非が議論されたときと似ていますが、「その人は、本当にその人なのだろうか」と性悪説的にゼロリスク発想に拘泥するとそこから先に考えが進みません。
「人は多面的である」「今自分と向き合っている面以外で、その人がどんな人で何をしているかにこだわりすぎない」「向き合っている面において、きちんと信頼に応える振る舞いをすることこそ本質である」ということを前提に置いた制度やサービス、手続きの設計が、企業には求められていくでしょう。
タバコを吸いながらリモート会議に参加する上司
10年ほど前に「友達のお母さんが握ったおにぎりが気持ち悪くて食べられない子供」というTwitterの投稿が賛否両論の話題になりましたが、今となっては「食べないのが無難」という世の中になってしまいました。
物事の工程に人間が介在することはこれまでは「手作り」「ハンドメイド」など、付加価値として語られてきましたが、もはやマイナスになってしまうのかもしれません。荷物の配達を玄関先に置き配してもらうように、人と人との間に時間や空間、物質を介在させることが、「物事をアンダーコントロールできている安心感」になっています。ともすると人間にとって最もコントロールできないのは「他の人間である」という感覚は、悲しいかな当たり前のものとして残るでしょう。
一方、今回のリモートワークの会議で「スモーカーの上司がタバコを吸いながらうれしそうに参加していた」というケースもありました。このように空間や物質を人と人の間に介在させることが、互いが生きやすくなる上で良い作用をもたらすこともあるわけです。
「人と人の間に何を介在させるか」「それによって、個々人が快適で安心な“アンダーコントロール感”をどう享受できるか」。このあたりが企業側にとっては価値づくりのポイントになっていきそうです。
Stay homeでネタ切れを起こしたインスタグラム
自己表現のパラダイムが自分の外側に存在する「客体を使ったアプローチ」から、自分自身の内側からの「主体的なアプローチ」に変わりつつあります。
インスタグラムを楽しんでいた大学生の多くが、「Stay homeでは画がネタ切れです」と悩んでいます。ある学生は「これまでいかに、どこに行き、何を観て、何を食べ、誰と写真を撮るかといった、自分の外側のもので自己表現していたかがわかった」と発言していました。
これらを踏まえると客体をビジュアルで表現する方法から、よりその人の意見や主義といった非物質的な「オピニオン」が重視されていくと見ています。Voicyやstand.fmなどの音声発信プラットフォームに注目が集まるのも、単に視覚から聴覚へのシフトである以上に、自己表現やそれに対する受容が「客体的なものから主体的なもの」へシフトしていることの表れではないでしょうか。
それに伴って「オピニオン格差」とも言える、考えや意見を形成する力の格差が新たな問題として浮上する可能性もあります。
ピュアな問いに答えを示せない
かつて、ビールが「一杯目に飲むもの」で、車は「女の子をデートに誘うために必要なもの」だったように、“そういうものである”という不文律を土台とした消費行為がありました。
しかしそれでは新たな感性を持った若者による「なんでそういうものなんですか?」というピュアな問いに答えを示せない。その結果「若者の○○離れ」が起こりました。
この場合の若者は、「不文律を知らないがゆえに最初に新しくなれる人」とも言い換えられますが、コロナ禍があらゆる人にとって未知の体験だったために、「前提をリセットしたピュアな疑問」を若者以外の世代も抱くこととなりました。
実際、これまで大勢の人が「なんとなくそういうものだから」という理由だけで行ってきたことが瓦解しつつあります。よく考えたら必然ではなかった行為は、「しなくてもいい行為」としてデリート対象になり、今後急速に支持されなくなっていくでしょう。
企業は、自社の提供する商品・サービスや、それに付帯する手続きや購買行動に、「そういうもんだ」という思い込みが混ざっていないか、いま一度まっさらな目で見直す必要があります。
「最初に新しくなる人」から学び、当たり前を再構築する
以上7つの変化を取り上げてみました。すべてに共通するのは、「自分の生活の自由度を、自分で編集しているか」という問いが個々人に改めて強く提示されたということではないでしょうか。
コロナ禍ではこれまでのさまざまな常識が覆されました。その結果、若者たちは「社会が提示する価値観や常識だからといって間違いないとは限らない」ということを学習したと思います。
若者とは社会で「最初に新しくなる人」とも言い換えることができ、われわれはそのような存在だと捉えています。7つの変化は若者のみならず、今後ますます社会全体に広がっていくでしょう。
「主導権はあるけど自由はない」自粛期間が終わり、「主導権は移動したまま自由度も増していく」のがこれからの社会だとすれば、「自分の暮らし向きを自分で編集する必要性」が個々人の中でますます強くなって行きます。
企業がそこに提供できる価値は何か。自社の前例や都合を「そういうものなので」と押し付けるのではなく、フラットに再構築することが問われているのではないでしょうか。
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