※本稿は、長谷川晶一『生と性が交錯する街 新宿二丁目』(角川新書)の一部を再編集したものです。
憧れの「二丁目」に通うため上京
なんでもやりたいことができて、どんな夢もかなう自由の街──。
それが、ペルーで生まれ、日本で育った日系三世・村上ひろしにとっての新宿二丁目だった。5歳の頃に祖父母の母国である日本に戻り、栃木県で暮らした少年時代。そして、自らがゲイであることを悟り、性に目覚めた青年時代。
まだ見ぬ夢の聖地・新宿二丁目に対する憧れは日に日に強くなっていった。栃木県に暮らす彼と、まだ見ぬ憧れの街を結びつけるもの──それがゲイ雑誌であり、数あるゲイ雑誌のなかでも、彼が愛読していたのが『バディ』だった。
実家の家計は苦しく、すべての学費と生活費を自ら捻出しなければならなかったHIROは、新聞奨学生として働きながら専門学校に通うことを決めた。
上京後、彼が最初に住んだのが東京・神保町だった。神田エリアの配達担当として働きながらデザイン学校に通う生活がスタートした。
専門学校でデザインを学んだ後に、憧れの『バディ』編集部で仕事をする──。その夢を胸にアルバイトで『バディ』のモデルに応募し、いきなり表紙デビューを飾った。専門学校卒業後は面接を経て、そのまま発行元のテラ出版に入社。初めは営業部に配属されることとなった。「新入社員は営業部で学ぶこと」という会社の方針があったからだ。
この方針に従って文句も言わずに営業部で働き続け、気がついたら5年が経過していた。当初抱いていた「デザイナーとして『バディ』に関わりたい」という訴えは、完全に反故にされていた。
「結局、一度もデザインの仕事をさせてもらえないまま5年が経過していました。その後、営業をしながら、1年だけ編集の仕事も兼務していたんですけど、なんだか気持ちも冷めていって、会社を辞めることにしました」
それが2009年、HIROが24歳のときのことだった──。
編集経験1年で異例の編集長のオファーが
しかし、『バディ』編集部がHIROをほうっておかなかった。
1年も経たないうちに、会社から「編集部に戻ってほしい」と連絡が入った。予想外だったのは、「編集長に就任して、雑誌のリニューアルをしてほしい」という命令を伴っていたことだった。
「自分、1年だけしか編集経験がないのに、いきなり『編集長になってほしい』と言われたんで驚きましたよ。そもそも、『編集長になりたい』なんて思ったことは一度もなかったですから。でも、この頃はそれなりに生意気だったから、『自分が編集長になった方が面白い雑誌はつくれる』って思いもありましたね」
こうして、HIROは編集長として『バディ』編集部に復帰する。編集経験はわずか1年ではあったものの、自分のセンス、能力には揺るぎない自信があった。
編集長に就任して最初に取り組んだのが「ヴィジュアル改革」だった。
元々、デザイン志向が強く、「カッコいいものをつくりたい」と考えていたHIROはまず表紙を変えた。それまでずっと表紙を担当していたスタッフたちを交代したのだ。
「もう何年も仕事をしているので、新しい感性と発想がほしかったんです。自分が描く理想の写真の撮り方、とらえ方があって、それがこの時点での『バディ』でできないのが不思議で仕方がなかった。他の一般誌ではあたりまえの写真なのに、うちだけができないはずがない。うちだって商業誌だというプライドがあったんです。それで、カメラマンやデザイナーを交代しました」
当然、従来のスタッフからの反発は大きかった。しかし、HIROは臆することなくスタッフの入れ替えを断行した。
ライフスタイルが分かる「バラエティ雑誌」を目指した
さらに、「編集方針の見直し」も積極的に行った。
2010年代を迎えて、インターネットも携帯電話もあまねく普及したことで、雑誌が伝えるニュースの価値は相対的に著しく低下していた。いつまでも雑誌メディアが「ニュース」にこだわっている時代はすでに遠い過去のものとなっていた。
「ネットがなかった頃は、エロとニュースは半々のバランスでもよかったと思います。でも、情報スピードで言うならば、いまはもう雑誌よりもネットの方がはるかに速い。下手したら、雑誌が発売される頃には、そのニュースは終わったものになっていることだってあります。そうなると、エロに特化するか、ニュースに変わるものを探すしかないんです。そこで自分が目指したのはたくさんのゲイの生き方がわかる《バラエティ雑誌》でした」
最新号の発売から次の号が出るまでの1カ月間、読者が読んでためになるもの、興味を持って読んでもらえるものをたくさん詰め込んだ雑誌。それが、HIROの目指した『新バディ』の理想形だった。
もう、即時性にこだわり、「ニュース」をありがたがる時代は終わったのだ。
「特に重視したのが、とにかくたくさん若い世代のゲイが顔を出すスナップ企画だったり、プロの写真家を起用したグラビア要素の強い写真企画などです。《ゲイ雑誌》という真面目なコンテンツ情報だけにとらわれない、最新のライフスタイルがわかる《バラエティ雑誌》を目指しました」
それが、編集長としての、HIROのこだわりだった。
エロも性感染症啓発もおしゃれも扱う
「いつの時代でもゲイ雑誌にはエロは必須だと思います。なくしてはいけないと思います。でも、自分のなかではエロ雑誌をつくっている気はないんです。世間の人たちは『バディ』に対して、ゲイのためのエロ雑誌というイメージを持っているかもしれないけど、他の編集部員によく言っているのは、『うちらはアウトドア雑誌やアニメ雑誌と同じなんだよ』ということです。自分たちがつくっているのは趣味の雑誌なんです。セクシュアリティだとか難しいことは考えずに、ゲイに関する趣味の雑誌だから、ゲイに関することはなんでも取り扱う。そんな考え方でいいと思っているんです」
好みや嗜好が細分化した現在、総花的な「総合誌」が生き抜くには困難な時代となった。目指すべきは、とことんマニアのニーズに応えることのできる「クラスマガジン」の道を模索することだった。
もちろん、『バディ』では、LGBTや性感染症にまつわる啓蒙企画も積極的に取り組んでいる。その一方ではHIROが口にしていたように、女性誌の定番企画である「気になる人たちの愛用品を大公開 ★バッグの中身見せて下さい。」(2018年7月号)といった気楽に読み進められる特集も掲載されている。
まさに雑多な内容だ。そして、雑多な誌面であるからこそ「雑誌」なのだ。HIROの掲げた編集方針は明快だった。
出会いの場だった新宿二丁目が閑散としている
前述したようにインターネットの発達、そして携帯電話の普及は雑誌のあり方を変え、同時に新宿二丁目という街も変容させた。
21世紀にさしかかったばかりの時期に高校生だったHIROは、この頃から「遊び場」としてこの街に出入りし、その後はプライベートだけではなく「仕事場」として新宿二丁目で生活をしている。
この間わずか20年弱でありながら、この街も大きく変わった。「いまでは新宿二丁目のことを一概に《ゲイタウン》と呼ぶことはできないんじゃないですか?」とHIROは言う。
「……かつては確かにゲイタウンでした。でも、いまでは多様性の街になったというのか、外国人観光客も含めた観光地になったという印象ですね。本当のゲイはもう新宿二丁目には少なくなりました。一時期と比べたら閑散としている印象もあるでしょう。週末なのに人がいない。クラブパーティのときも企画に関係なく人がギューギューだったのに、いまではそのクラブですらアイディアをふりしぼって人を集めている。『みんな一体、どこに行っちゃったの?』って……」
本当のゲイが少なくなった──。その理由はどこにあるのか? その要因こそインターネットの発達であり、携帯電話の爆発的普及によるものだった。
「かつて、新宿二丁目に人があふれていたのはこの街に来れば出会いがあったからです。この街に来れば友だちだけでなく、その日の夜を過ごす誰かに会えた。でも、いまの若い子はこの街に出会いを求めていません。友だちだって、セックスパートナーだってネットで見つかるから。ゲイ専用のマッチングアプリがあれば、わざわざ新宿二丁目に来る必要だってないんだから……」
メディアに取り上げられることで観光地となった
HIROの言うように、ただ出会いを求めるだけなら、携帯電話さえあればわざわざ新宿二丁目に足を運ぶ必要はなくなった。
新宿駅前のアルタで待ち合わせもできるし、そもそも新宿でなくても、渋谷でも池袋でも、当事者たちにとって都合のいいエリアで待ち合わせをすればいい。
さらに、「ノンケ」と呼ばれる一般層の新宿二丁目進出も街の変容に拍車をかけた。
「本当のゲイの人が少なくなった代わりに、一般メディアに取り上げられることで観光地となり、ノンケの人たちが来る街になりました。その結果、ゲイたちは『ノンケが来るなら、行くのをやめようか』とますます足が遠のいていく。いまでもこの街に来る人たちは、知り合いが店をやっているからとか、なじみの店があるからとか、そういう理由ばかり。すべては出会いなんです。でも、それがすべてソーシャル化しちゃったんです」
恋人を見つけること、友だちをつくること、一夜限りのパートナーを探すこと。いずれも、HIROの言う「出会い」だ。そして、それらすべてのことが、かつてはこの街──新宿二丁目──で行われていた。しかし、いまでは「出会い」だけを求めるのならば、この街に固執する必要も、理由も希薄となった。
徒歩5分の距離を引っ越したが、まるで違う
それでも、HIROはいまもなお新宿二丁目にあり続ける。
「僕が編集長になる直前に、『バディ』編集部はそれまでの新宿一丁目から、ここ二丁目に引っ越してきました。歩いてわずか5分程度の距離でしかないけど、一丁目にあるのか、二丁目にあるのかではその意味合いも全然ちがうと思っています。24時間、この街の様子や人の出入りを見ることができます。夜中に編集作業をしていても、街の騒ぎ声やカラオケの歌声が聞こえてきます。飲みに来ている人がついでに編集部に遊びに来ることもあるし、急に企画を差し替えなければいけなくなっても、外に出ればどこにでもネタは転がっている。この街で雑誌をつくること、新宿二丁目で暮らすことは大きなメリットがあるんです」
新宿二丁目特有の街の喧騒、そして匂いこそ、『バディ』を構成する重要なエッセンスなのである。
創刊25年を経て、ついに休刊へ
「出版不況」という言葉が喧伝されるようになって、かなりの時間が経過した──。そして、その波はゲイ雑誌の世界にも例外なく確実に直撃する。
1996年に『アドン』が休刊に追い込まれ、2002年には『さぶ』が、2004年には最古参の『薔薇族』が倒れた。HIROが出版界に足を踏み入れてからも、2016年にはエピソード1で紹介した長谷川博史が創刊に尽力した『G‐men』が姿を消した。
ライバル雑誌が次々と討ち死にしていくなかで、HIROは奮闘を続けた。自分の信じる「面白いこと」「カッコいいこと」を大切にしながら、『バディ』をつくり続けた。
しかし2018年12月、ついに終焉のときが訪れる──。
このとき、『バディ』の休刊が決まった。1月号では「創刊25周年特別記念号」として大々的に四半世紀の足跡を振り返りつつ、「今日は僕の記念すべき新しい出発点。」と勇ましいフレーズが誌面に躍っていたにもかかわらず、翌2019年1月21日発売の3月号での休刊が正式にアナウンスされたのだ。
HIV感染者として雑誌立ち上げにかかわった長谷川博史。LGBT関連の書籍や雑誌をきちんと整理し、ゲイカルチャーを体系的にとらえ続ける「オカマルト」の小倉東。
あるいは、編集者としてこの雑誌の編集に携わっていたマツコ・デラックスやブルボンヌ。そして、奮闘の末に最後の編集長となったHIRO。
『バディ』には多士済々な才人たちが集っていた。それを称して、リリー・フランキーは「ゲイのトキワ荘」と表現したという。
政界、ミュージシャン、芸能界の面々も登場
それまでは決して表舞台に登場することなく、当事者たちが隠れて読むものだったゲイ雑誌のイメージを大きく変えることにも多大な貢献を果たした。創刊以来、ジャンルを問わぬ有名人たちを続々と誌面に登場させたのもこの雑誌だった。
政界からは福島みずほ、尾辻かな子、石坂わたる、上川あや、石川大我などが登場。ミュージシャンではクリスタル・ケイ、DOUBLE、中西圭三、岩崎良美、米倉利紀、一青窈らが誌面を彩った。芸人では藤井隆、レイザーラモンHGら、文化人では山田詠美、戸川昌子、湯川れい子ら、海外からはザック・エフロン、ジョン・キャメロン・ミッチェル、セス・グリーンらも誌面を飾った。
いままでにない開かれたゲイ雑誌──。それが、『バディ』が目指し、実現してきた道のりだった。
ブランドを使ってウェブ展開をしていきたい
編集長として駆け抜けた日々をHIROが述懐する。
「かつて7万部を誇っていた部数も、近年では2万部程度となり、年々微減となっていました。広告収入も最盛期の3分の1ぐらいに落ち込んでいました。だけどクオリティは下げたくない。この雑誌を愛してくださる固定読者の方に『バディ』を届けていきたい。その思いは強くありました。それでも、編集部と会社の意向の相違もあって、残念ながら休刊することとなりました。これからは『バディ』らしいウェブ展開をしていきたいと思っています。やっぱり、『バディ』に対してはすごい思い入れがあるから……」
栃木県で過ごした青年時代には一読者として、上京してからは主要モデルとして、そして学校を卒業してからはスタッフとして、HIROは『バディ』に関わり続けた。
ひとまず、「雑誌」という形態での『バディ』には終止符が打たれた。しかし、25年かけて培ってきた『バディ』というブランドにはいまだ力がある。これからは新しいかたちで、そのパワーを活用していくことが求められている。
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