1500年ころ、日本人は本当に自由だった
「ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける」
「ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている」
「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる」
不倫叩きやミソジニー(女性蔑視)による人権侵害が叫ばれる現代にあって、極めて進歩的なある種の女権論者がこの文章を読めば、ここでいう日本人女性の姿とはいったい何のお話なのか、とお怒りになるかもしれない。実はこの文章は豊臣秀吉の時代(1585年)、イエズス会の宣教師として来日したルイス・フロイスによって記された近世日本人の観察像である(『ヨーロッパ文化と日本文化』(原題:日欧文化比較)ルイス・フロイス著、岩波書店)。
日本人とは、西欧人からすれば性に奔放かつ放任的だった
事程左様に、ある時期まで日本人とは、西欧人からすれば極めて自由で、また性に奔放で、かつ放任的な性格を持つ民族であった。
近年、江戸時代を記述する学校の歴史教科書から「士農工商の厳格な身分制度」という記述はきれいに消え去った。歴史学者による江戸期の研究が進むにつれ、江戸時代には前記4区分に代表される厳格な身分制度は存在せず、支配階級である武士以外は(――被差別民を除けば)おおむね横一線に平等であることが明瞭になったからであった。「土地と年貢に縛られた百姓」というのもまったく古い概念で、実際の農民は、農業以外に大工、石工、輸送、金融、小売りなどさまざまな「非農業分野」に携わる、今でいう「兼業農家」が主力であったことが実証されたからである。
江戸時代を階級闘争史観でみる歴史学は古いものとなり、有名な「村八分」という近世村落における私的制裁も、実際には村落共同体の崩壊が進んだ明治以降にむしろ頻発し、近代以降に後付けされたものであるとの説が主流になってきた。
お上の言いつけに厳格に従う従順な日本人像
近世以前の日本人にはそのような陰湿な同調圧力は希薄で、農民が田畑を放り投げ、江戸や大坂(大阪)などの大都市部等に職を求めて流入する勝手気ままな性質が浮き彫りになっている。幕府はそのたびに数多の「帰村令(帰農令)」を出したが、「お上」の言うことを聞かない民衆は、ほとぼりが冷めるとまた担当田畑を捨てて逃散を繰り返した。
「お上」の縛りで有名な5代将軍綱吉による、いわゆる「生類憐みの令(――実際には諸法令の総称)」も、野犬による伝染病や感染症から身体弱者を守る朱子学的政策にほかならず、この時期に来日したドイツ人医師・ケンペルも、「お上の言いつけに厳格に従う従順な日本人像」などどこにも記してはいない(――よって現在、綱吉治世の再評価が急速に進んでいる)。
また、古代・中世期の日本は「島国」とは程遠い、環日本海文化圏をその土台として、島嶼を超えた大陸との広範な交流を活発に行ってきたことが明らかになっている。
俗にいう「島国根性」「日本人気質」は、同調的で相互監視的で「お上」の意向にことさら弱く従順、とされがちな日本人の民族性を指した言葉だ。だが、古くからこの国の人々にそういった性質が強固に根付いたわけではない。
コロナで「島国根性」「日本人気質」がむき出しに
現在のコロナ禍では、この俗にいう「島国根性」「日本人気質」がむき出しになっている。感染が発覚した患者宅への投石や差別落書きを筆頭に、お上による自粛「要請」にもかかわらず、まるで法を破った罪人であるかのように旅行をした芸能人をつるし上げて叩く。感染を公表した俳優の石田純一氏へは、出演するラジオ局(私も別曜日で出演している)へ、石田氏個人を批判する声が寄せられているという。
そればかりではなく、自粛「要請」の段階で経済自衛のためやむなく営業を続ける小売店やパチンコ店へ、市民が自主的にその営業実態をお上に通報する事態が相次いでいる。これらは法的根拠に基づかない「この非常時に不道徳である」という観念に基づいた自発的な制裁で、つまりは私的制裁の一種である。
私は数年前、コロナ禍が起こることなど予想できなかった時分に、人々が不倫などを行った著名人を「不道徳である」と決めつけ、電話やメールで徹底的に叩き制裁する風潮を「道徳自警団」と名付けたが、ようするにこの「道徳自警団」による私的制裁、集団リンチがコロナ禍によって噴出しているのである。
日本の陰湿で同調的な市民による私刑
最も恐ろしいことは、こういった市民による自警団的行為が、法的根拠ではなく単なる「不道徳と感じること」を行った個人等に向けられ、お上から強制されたわけでもないのに市民が自発的に通報や制裁を行っている事実である。このような事態はハッキリ言って異常で、海外でもコロナ感染が蔓延する中、このような陰湿で同調的な市民による私刑の事例を、私は寡聞にして知らない。
このような日本人の“同調的で相互監視的で「お上」の意向にことさら弱く従順”という気質は、いったいどこからきているのだろうか。経済学者の野口悠紀雄氏は、その著書『戦後日本経済史』(連載原題・戦時体制いまだ終わらず)の中で、日本社会の翼賛的性質は戦時統制下で形成され、その体質が戦後になっても途絶えることなく継続されてきたことに遠因があると説いた。氏はこれを「1940年体制」と呼称した。
どうやってお上を気にしすぎる文化ができたのか
実際、現在日本社会の様々なシステムは、戦時統制下から一貫して変化がないものが多々ある。戦前、現在とは比較にならない数の新聞社があったが、戦時統制下で「全国紙・ブロック紙・地方紙」の3つに再編され、「一県一紙」体制が確立したことは事実である(――これに加えて新聞原料である紙の供給を軍が握ったことにより、軍批判が抑えられた)。
また原発事故後ようやく見直されつつあるが、戦前は百花繚乱していた電力会社も、「戦争遂行に必要な安定的な電力供給」の名のもとに現在に至る「電力9社」体制が完成した。それ以外にも、戦争遂行上重要な物資として認定された車両(タクシー)や製鉄、鉱業・石油関連業種も、強力な戦時統制によって再編され、その姿は戦後も部分的には変わらず存続している。
もっともこういった戦時統制は、日本の敗戦とともに瓦解する。日本型ファシズムに加担した財界人はGHQ命令で追放され、その間隙をついて後に日本経済の屋台骨となる電機・自動車産業等が花開くことになった。しかし、いったん追放された戦時統制の申し子は、いわゆる「逆コース」と高度成長の要請によって再び財閥から「グループ会社・企業」に名を変え、日本社会の前面に戻ってきた。
民主的改革が不徹底だったことから
戦時統制下で翼賛体制に組み込まれてお上を常に意識してきた日本人の精神も簡単に変化することはなく、1970年代におおむね高度成長が一服すると、日本人の忠誠意識は「国家」から「企業」に転換しただけで、翼賛意識は温存された。「企業社会」の誕生である。兵士はモーレツ社員となり、終身雇用と年功序列といういささか軍隊的な帰属意識が蔓延した。企業内部に疑似国家ができたわけである。
教育方面では、敗戦により国家への忠誠が徹底的に排除されたものの、軍隊的な方針はまったく改善されないまま残存し今に至る。一時期問題になった「丸刈り」(現在ではさすがに廃止)や、諸外国に例をみない危険な組体操が、現在でも学校教育の現場で平然と行われているのは、教育が国家への忠誠を排除した代わりに、教職員団体や学校機構そのものへの忠誠へと置き換わったにすぎないからである。
こうして日本社会は、敗戦という一大混乱を経たにもかかわらず、民主的改革が不徹底だったことから、その意識は翼賛的なまま現在まで温存されてきたのであった。
真の民主的な自意識の涵養が急務
つまるところ「島国根性」「日本人気質」とは、伝統的に日本人や日本社会が有していたものではなく、戦時体制下の気質が高度成長を経て、日本人が護持し、なまじその強烈な同調体制がこれといった弊害を生むことなく、結果経済大国となった過去五十年余の成功体験からきているのである。こういった日本人気質は、日本の歴史の中で日本人が持ちえなかった、悪い意味で全く新しい民族性なのである。
しかしもはや、日本社会は1940年体制とは全く違っている。非正規雇用が全労働者の約4割に至り、企業社会の根幹をなす終身雇用と年功序列は形骸化が叫ばれて久しい。産業界には旧財閥の垣根を超えた新しい企業体が勃興している。にもかかわらず、人々の意識だけが戦時統制下の影響を強烈に受け続けているのは、ひとえに敗戦後の民主的改革が不徹底で、中途半端で封建的な意識が人々にびまんしているせいであり、そういった意識の中でも日本社会が何とか回ってきたからに尽きるのではないか。
今次コロナ禍で浮き彫りになった日本人気質は、日本の歴史の中で「異形」のものであるとの認識を共有し、すでに終わった1940年体制に代わる、真の民主的な自意識を涵養することが急務だが、その道のりは険しい。
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